オフビート(型破り)= 跳痛
広告会社の編集者、ファッション誌の編集主任、テレビ番組の音楽プロデューサー、ラジオ局のDJ、著名な作家、と様々な顔を持つシュエン・リョウ(劉軒)は、実にユニークな有名人として、その地位を確立しています。「オフビート」(文字通り、ビートを跳び出す、転じて型破りの意)、さらに「跳痛(ティアオトン=TONEを跳び出す)」という台湾的表現がとても気に入っていると言うシュエン。シュエン・リョウ: 「様々な環境に飛び込めるって素晴らしいと思います。〔跳び出す〕ごとに、私達は安全地帯から離れ、周囲がどうであろうと慣れて順応することを学ぶのです。もちろん、精神的苦痛を感じます。心地よいベッドから離れなければならないという事実さえ〔苦痛〕なんですから。
学級副委員長から留年生へ
父親が 『Ying Chuang Xiao Yu(蛍窓小語選集)』の作家として大成功を収めて以降、芸術家になることを目指す父親をサポートするため、シュエンの家族は米国へ移住。そして何年にもわたる努力の末、ついに彼らはニューヨークを安住の地とします。こうした生活の変化は、シュエンの性格に多大な影響を及ぼしました。当時、彼は幼すぎて英語を習得できなかったのですが、それでもニューヨーク郊外の語学学校への入学が認められました。でも当初は、彼とどう対話すればよいのか先生達も皆目分からず、シュエンは精一杯努力して黒板の言葉を「スケッチ」し、家に持ち帰っては両親に通訳してもらうほかありませんでした。
▲シュエンの家族が突然ニューヨークに移住した時、彼には英語オンリーの学校への通学が手配されました。
▲シュエンはABCDを書くことすらできず、黒板の言葉をスケッチのようにまねて描くしかありませんでした。
学期初日に、シュエンの両親は彼が他の生徒に追いつくために留年が必要なことを知らされました。台湾ではクラスの学級副委員長だったシュエンが、米国では留年生になったのです。
より高い目標を掲げる
これほど大きな変化にぶつかっても、くじけることなく、シュエンは中学校卒業後のクラスで首席となりました。さらに先生達はシュエンに大きな期待をかけ、都心のさらに優れた学校を目指すよう、彼の両親に勧めました。このような目標が目の前に定められたシュエンは、名門中の名門に出願して入学が認められ、そうして10年で首席になったのです。英語が全く話せない所から出発し、最優等で卒業するまでになりましたが、彼はもう一度ゆりかごから引き出され、新しい環境に投げ込まれました。ニューヨークの環境や、そこでの経験は彼の考え方に多大な影響をもたらしました。天才児であふれるストイフェサント高校で、彼は疑問を持ち始めたのです。「僕は誰なのか?僕はどこが特別なのか?僕は何に興味があるのか?」これら3つの問いかけは十代の反抗期の間、光ビーコンのように反復され、その答えを見つけ出そうと努めることで、シュエンは自分の選択とその結果により一層集中することができるようになります。それと同時に彼は、ジュリアード音楽院への入学が認められ、彼の音楽実験の旅が始まりました。
▲ハーバード大学のキャンパス
まだできるうちは、夢は叶えられるはず
彼がニューヨークに戻ったのは、911事件が発生した頃でした。シュエンは自ら進んでカウンセラーの役割を引き受け、犠牲者遺族の追悼の一助となります。その間、シュエンは100以上の自叙伝を目の当たりにし、突然衝撃を受けます。計画を立てることはできてもそれが実現するまではいつまでたっても単なるアイデアでしかないのだと。彼は、まだできるうちに必ず夢を叶えようと心に誓い、再びスーツケースに荷物を詰め、さらに世界の隅々にまで足を運ぶことにしました。最終的にシュエンは台湾へ帰国し、広告や音楽業界に加わるほか雑誌編集者になり、彼が常に賞賛していた人生を歩み始めたのです。
▲ツインタワーは 911 攻撃で崩壊。
「play(プレイ)」という言葉はそれ自体がいろんな意味になります。シュエンにとって、「跳痛(型破り)」になることはある種の「play(プレイ)」なのです。勇気を奮い起こして慣れ親しんだ領域から飛び出す時は、常に苦痛を感じます。しかし、進み続けるにつれ、このことを通してはるかに多くのものを得たことに気づき、振り返ってどれだけ遠くまで来たかを確認するのです。「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル。」スピーチの最後に、シュエンは皆にゆりかごから飛び出るよう勇気づけるため、村上春樹氏の言葉を引用しました。飛び出す過程は痛みを伴うものであっても、それをコントロールするか、コントロールされるかは選択できるものなのです。
参考資料: http: //www. presstv. ir/usdetail/260968. html
http: //en. wikipedia. org